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七夕飾りは、七日の夜に祈願しつつ燃やす

七夕送りというのは、七夕祭りの飾り竹を海や川に流す行事で、これは日本百代からの信仰によるお祓いです。徳川将里黍では笹竹を立てて七夕を祭った翌朝、これを品川の海に捨てるのがならいでした。七夕舟といって麦わらなどで大きな舟をつくり、竹や人形などを積んで流す風習は、各地方に残っており、盆と一連の行事のように考えられているところもあります。幼稚園などでは、七夕飾り作りがさかんですが、クリスマス・ツリーとちがって、子どもたちが自分の手で作ることに喜びがあるようです。都会では川や海が間近なところになかったり、あってもものを流すことを禁じられている場合が多いようです。おとながそばについていて、燃やして始末したほうがよいでしょう。

婚姻届について

市区町村の役場の戸籍係に置いてある婚姻届に2人で記入して、それぞれ署名押印します。また、証人2名の署名押印も必要です。証人は成人ならばだれでもかまいません。たとえば仲人・媒酌人夫婦でも印鑑を夫婦で違うものにすれば受理されます。この婚姻届は新しく作る本籍地の役所でなくても、全国のどこの市区町村役場でも受け付けてもらえます。夜間や日曜日、祝祭日でも、郵送や代理人でもOKです。ただ、注意したいのは、届け先と本籍地との関係で必要書類の枚数が異なる場合がありますので、役所に確認しましょう。なお、男子18歳以上、女子16歳以上になっていれば結婚できますが、20歳未満の場合は親の同意書が必要になります。いずれにしても婚姻届を役所に提出し、それが受理され、2人の新しい戸籍が作られて初めて法律上の夫婦として認められることになりますので、速やかに届け出ましょう。

小笠原流と、時の支配層との持ちつ持たれつの関係

日本の礼儀作法の本家本元たる小笠原流と、時の支配層との持ちつ持たれつの関係に注目したい。宮廷に代わって一時期、日本の政権を担当した幕府がいかにして封建制度を成功させたかという皇室の外戚となって専横を極めた平家一門を討ち滅ぼして政権の座についた源頼朝は、弓馬師範の名門小笠原長清に命じて「武家諸礼法」を整えさせる。戦乱に明け暮れる関東の荒武者どもを、宮廷風の格調高い礼儀作法で縛ることで、整然とした秩序を確立させる。同時に征夷大将軍源頼朝の権威は高揚し、不動のものとなる。すなわち礼法は男子専科、武士の教養第一課であった。小笠原長清は弓馬の武芸を司る一方、鎌倉幕府の公式儀礼に采配を振った。さしずめ彼は現代の防衛庁長官と外務省儀典長、宮内庁式部官長の役を兼ねていたといえる。政権は足利氏、徳川氏へと交代しても、小笠原氏は時の将軍の要請で作法を指導し、『三議一統』や『礼書七冊』などの編集も行った。足利幕府は、鎌倉幕府のような家人統制力を軍事的に持っていなかったため、大名に対する政策として、さらに厳しく礼儀・格式で縛っていこうと試みた。つまり幕藩体制を強化させ維持するため、まず上下の区別を明確にさせた。その差別のなかで円滑に事を運用するために、儒学の「三綱(君臣、父子、夫婦のつながり)・五常(仁・義・社・智・信)の理論」を正面に据えたのである。江戸時代になると、この封建体制はさらに整備され、将軍、三家、三卿、大名、旗本、ご家人、農、工、商と身分制度が整然と固定されてくる。そして、それぞれの身分に従って、言葉遣い、服装、食事、家構え、家具調度品の配置、乗物の形、使用人の数や待遇など生活様式全般にわたってきまりがつけられた。日本の全人口の一割にも満たなかった武士階級が、残りの九割の農・工・商の庶民を支配していくためには、このような秩序づくりが絶対に必要だったのである。しかもこの徳川体制は、全人口を士・農・工・商でヨコに切ると同時に、更に藩というタテ割りで統制したもので、組織としてヨコとタテを交錯させた点が、歴史的に稀にみるすぐれたものであったと高く評価されている。儒教的礼法を前面に掲げたこの封建制度のおかげで、徳川の江戸時代は世界に類をみない三百年という長い年月、平和と繁栄を保てたのである。